妙法寺の歴史は天平年間(729〜749)に行基菩薩が現在の三豊市豊浜町にお堂を建立したことに始まり、慶長2(1597)年に丸亀城主生駒親正公の命により現在の地に移転。寛文6(1666)年に徳川幕府の命により日蓮宗不受不施派から天台宗に改宗しました。 江戸時代半ばには俳人・画家の与謝蕪村が滞在し「蘇鉄図」など大作6点を残して、後に「蕪村寺」とも呼ばれるようになりました。 丸亀藩京極家の祈願所でもあり、シンボルの勅使門(山門)は令和5(2023)年、国の登録有形文化財に指定されています。
妙法寺のご本尊は金剛界大日如来(秘仏)です。すべての命あるものは大日如来から生まれたとされ、大日とは「大いなる日輪」のことであり、他の仏は大日如来の化身と考えられています。 如来は出家後の釈迦の姿をあらわしており、装飾品は付けていませんが、大日如来だけは別格であるため、装飾品や宝冠を付け、螺髪(らほつ)ではなく、髪を結い上げているのも大きな特徴です。
年中行事
12月の第4日曜日 | 天台大師報恩講・永代経法要(通称・お講法要) |
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2月11日 | 大黒天護摩供奉修 |
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729〜749天平年間
行基菩薩により豊田郡和田村(現:観音寺市豊浜町和田)に一宇のお堂が建立
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1595文禄4
長宗我部元親の兵火で焼失後、豊田郡坂本郷(現:観音寺市坂本町)に移り、日蓮宗不受不施派に属す
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1597慶長2
丸亀城主・生駒親正公の命により現在の地に移る
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1669文禄9
徳川幕府の命により京都・毘沙門堂門跡の末寺となり、天台宗に改宗
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江戸時代初期
小堀遠州(1579~1647)が「崩れ石の庭」を築庭したと伝えられている
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1710宝永7
元三大師降魔尊像、元三大師画像、大黒天像(伝・伝教大師御作)を日光輪王寺門跡より拝領し、持ち帰る
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1768明和5
与謝蕪村が讃岐を訪れ、妙法寺に逗留し、「蘇鉄図」「寒山拾得図」をはじめとする6作品を描く
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1865慶応1
東照大権現(徳川家康公)の二百五十御神忌に京都・毘沙門堂門跡の随行として、大通寺住職と共に日光へ参勤
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1971昭和46
与謝蕪村筆「蘇鉄図」をはじめとする6作品が重要文化財に指定
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1976昭和51
元三大師画像、元三大師降魔尊像、同由来記板が丸亀市文化財に指定
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2023令和5
勅使門(山門、明治18年落慶)が国の登録有形文化財に登録
想いとご縁を大切に
「ご縁」とは「人と人とのつながり」です。私たちは多くのご縁によって今を生きています。
妙法寺は与謝蕪村と元三大師ゆかりのお寺です。
蕪村さんは京都からわざわざ讃岐へお越しになり、縁あって妙法寺の襖絵を描いてくださいました。
元三大師については、はるばる日光輪王寺(現在の栃木県)へ片道60日以上かけて参勤し、元三大師の画像と降魔像を大事に持ち帰りました。
大変なご苦労を伴いながら徒歩で往復したに違いありません。
一つ言えることは、蕪村さんにしろ当時の住職にしろ、そこに確かに「想い」と「ご縁」があったということです。
私も、想いとご縁を大切に、地域の皆さんや檀信徒の皆さんと共にありたいと常々考えています。
具体的に当寺にできることは、蕪村寺の拝観、ご祈願、仏事・ご供養、おみくじ相談、茶飲み話などです。
これらを通じて、住職として皆さんのご相談、悩みや想いをしっかりと聴聞し、受け止め、妙法寺へお越しくださったことがご縁で、参拝の方々が何らかの安心をお持ち帰り下されば、大変有り難いと思っています。どうぞお気軽にご相談ください。
中興第十九世住職大岡 真祥