蕪村しのばせるソテツ
江戸時代の中期、明和年間(1764-1772)のことである。
黄昏(たそがれ)の迫る讃岐路、丸亀のとある寺の門前に初老の老人が立った。
男は京都からはるばる訪ねてきた知人を探しあぐね、懐中は無一文、応対に出た住職に一夜の宿を請うた。
秋の妙法寺庭園の様子。蘇鉄は1年中青々しい緑を保つ

寺は天台宗で、宗派は一期一会(注)を大切にする。住職は「下男(げなん)部屋でよければ」と心よく応じて食事も与えた。翌朝、男は名も告げずに寺を立ち去った。
数日後、近郷の有力者が、遠路この地にやってきた友人を案内して寺を訪れた。住職に引き合わされたその友人は微笑(えみ)を浮かべ頭を下げた。くだんの旅人であった。
男はそうした縁(えにし)で寺へ逗留することになり、その間六点の絵を描いた。
中でも寺の庭をモチーフにした「蘇鉄図(そてつず」は襖(ふすま)四面の大作で、現在四曲一雙の屏風に作り替えられている。今では他の五点とともに国の重要文化財の指定を受け、寺で大切に保管されているという。
講談にでも出てきそうな逸話だが、今から二百三十年ほど昔の実話であるらしい。
寺は丸亀市富屋町にある正因山妙法寺、旅人の名は文人画家、与謝蕪村である。
蕪村は六十八年の生涯で三十年間を旅に明け暮れているが、讃岐の俳句仲間を訪ねて遊歴したには明和三年(1766)から同五(1768)年の春先まで、五十一歳より足掛け三年間であったと言われている。
その間の足どりについてはつまびらかにされていないが、おそらく高松の城下や金毘羅、丸亀辺りの俳友や知り合いの世話になりながら滞在したものと思われる。
丸亀では妙法寺にとどまり、ときの住職の求めに応じて客殿や仏間などの襖絵を描いている。蕪村の描いた他の五点は、竹の図、寿老人の図、山水図二点、寒山拾得図である。このような経緯から妙法寺は別名蕪村寺(ぶそんでら)とも呼ばれているようだ。
前記の「蘇鉄図」には「酔春星」との銘がある。蕪村は長い放浪生活の中でこよなく酒を愛したと伝えられている。おそらく酒を飲みながら庭を眺めているうちに興が湧き、一気に絵筆を振るったのではなかろうか。
妙法寺の庭は本堂の裏手、客殿に面して築かれている。造りは遠州流で、その特徴であるソテツやマツ、カエデ、カシ、バベの大胆な植え込みが目をひく。
蕪村が眺めたソテツは現存していないが、いったん枯れてしまった後に再生して、今でも奥のやや高まった場所に、同様な姿で葉を繁らせている。
また庭は組み石にも工夫が凝らされている。ソテツの低い築山から岩が手前に枯れた小川に崩れ落ち散在しているかのようだが、よく見ると趣を添えるようその配置には細心の気配りがなされているようだ。これが別称「くずれ石の庭」とも呼ばれる由縁なのであろう。
当時、すでに画家として俳人として名を馳せていた蕪村も、このくずれ石の妙なる庭の形に魅せられて創作意欲をかきたてられたものとも推測される。
丸亀市富屋町と言えば、商店街の中心地である。当然のことながら寺はホテルやビルなどの高い建物に囲まれているが、庭を愛(め)でるために、側面をカシの喬木(きょうぼく)で囲う配慮も講じられている。
蕪村ゆかりの妙法寺。庭に身を置いていると、ゆかしい俳諧の香りまで漂ってきそうな気がする。
(文/今井泉氏)


(注)一期一会
一生に一度だけ会うこと。また、一度限りであること。特に茶道では大切な精神である。なお、天台宗の宗旨とは直接関係ない。
四国新聞2000.02.06(日)朝刊掲載


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