与謝蕪村の生涯 Yosa  Buson

与謝蕪村(よさぶそん・1716−1783)

江戸時代中期の俳人・画家。姓は谷口、後に与謝を名のる。俳号は宰町・夜半亭(2世)、画号は春星・謝寅(しゃいん)など。門下からは几董(きとう)・月居らが輩出した。また上田秋成との交遊も知られている。後年「春風馬堤曲(ばていのきょく)」の舞台となる摂津国毛馬(大阪市)に生まれた。
蕪村の生涯はまさに絵と詩の世界に身を置きながらの遊歴そのものであった。20歳前後に江戸に出て日本橋石町の早野巴人に入門。巴人没後は、下総国結城(茨城県)をはじめ、約10年間北関東、東北を旅した。宝暦元年(1751)には京都にのぼり、宝暦4年(1754〜57)に丹後国(京都府)宮津、明和3年(1766〜68)には讃岐国(香川県)琴平、丸亀に滞在した。
明和3年(1766)、太祇・召波(しょうは)らと俳諧結社「三菓社」を結成して俳人として活動。さらに尾張国(愛知県)の暁台(ぎょうたい)、伊勢国(三重県)の樗良(ちょら)らと交わり、俳諧の「中興期」とよばれる安永・天明期(1772〜89)を代表する俳人となった。
安永6年(1777)には「夜半楽」を刊行。天明3年(1783)9月、きのこ狩りに行って「宇治行」を著したが、その後、病に倒れ、「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」など3句を残して12月25日に68歳で没した。翌年の天明4年、几董の編により「蕪村句集」が刊行されている。
すぐれた画家でもあった蕪村の代表作には、「菜の花や月は東に日は西に」「五月雨や大河を前に家二軒」など、絵画的な光景を読んだ句が多い。また「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」「行(ゆく)春や撰者をうらむ哥(うた)の主」など、歴史的な光景を想像してよんだ句も有名である。ほかに、「春風馬堤曲」のような郷愁の俳詩もあり、なかでも「君あしたに去りぬゆふべのこゝろ千々に何ぞはるかなる」とうたう「北寿老仙をいたむ」は近代詩を思わせる作品として特筆される。
絵画では「蘇鉄図」や「夜色楼台図」、池大雅との合作「十便十宜図」などが代表作としてあげられる。蕪村は、画人として生涯師を持たず、「吾に師なし、古今の名書画をもって師と為す」と語ったと言われる。和漢の様々な作品に筆法を学び、素直な心で斬新な表現を求め、自ら工夫を重ねて独自の様式を確立したのである。蕪村の場合、画と句がお互いに密接な関係にあり、俳画を創始したことで知られている。
写真は蕪村の弟子であった月渓筆の「蕪村画像」。

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